「かたさ・うすさ・ちいささ」。これが、今の日本人の書き方の特徴のように感じる。「かたさ」とは、活字のような四角さ。いわゆる「まる字」でも、文字全体のフォルムを正方形に収めてしまう。



 「うすさ」とは、線質の浅さ。本来の「書く」は、石などを「刻む」ことに近いはずなのに、「ぬる」、「なでる」、「押し付ける」ことばかり。「ぬる」「なでる」では線は薄い。「押し付ける」と表面的にしか濃くならず、道具も身体も痛めてしまう。「ちいささ」とは、運筆の窮屈さ。特に、右上がりの線の不得手が多い。足腰からの旋回運動を起こせず、手先に仕事させすぎ、細やかな角度の調整ができない。



 書き方は、日常動作の無自覚の癖をも映し出す。書き方の特徴は、現代人の動き方にも当てはまるだろう。 例えば、歩き方。膝の「かたさ」ゆえに、腰に負担をかける。座り方。肩甲骨の「うすさ」(存在のなさ)で、猫背になる。その「かたさ」「うすさ」ゆえの呼吸の「ちいささ」で、疲れやすい。もちろん、全員に当てはまるわけではない。しかし、「かたさ・うすさ・ちいささ」ゆえに、心の「むなしさ」が拭えない人は少なくないだろう。



 それに対して、「和の文化」を築いた平安人の動き方はどうだろう。例えば、平等院鳳凰堂の阿弥陀如来。観れば感じるだろう。西洋の彫刻と異なる、その佇まいの「やわらかさ・あつさ・おおきさ」を。 触れると、ふわっと指が入りそうな「やわらかさ」。中は水じゃないかと思うほど、力みがなく滞りがないのに、どしっと安定した「あつさ」。その「やわらかさ」「あつさ」ゆえに、世界を包み込むような存在の「おおきさ」。



 平安の書にも、彫刻と同じ特徴が表れる。例えば、嵯峨天皇の書。横画や縦画のしなりなどから、素人でも、中国と異なる和様の「やわらかさ・あつさ・おおきさ」を感じるだろう。 なぜ、平安人の書や彫刻と比べて、現代人の書き方や動き方に、このような不自然さが表れるのだろう。それは、急激なグローバル化によって、日本人に備わる身体感覚とは不釣り合いな生活様式になり、まるでサイズの合わない靴を履かされたように、身心が「立たず舞えず」に状態になってしまっているからではないだろうか。



 満たされているはずなのに満たされない。そんな日本人に合うサイズとは、どのようなものなのだろう。京都と滋賀に根付く和の文化の「佇まい」は、その大いなるヒントを提示しているように思えて仕方がない。





                                                              書法道場師範 武田双鳳